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重要な市道:三津の渡し

重要な市道:三津の渡し

この渡しは市道高浜2号線の一部として、三津と港山の間約80メートルを結ぶ「松山市営」の渡船で、年間約4万人の利用者に親しまれており、今回、老朽化した「1号渡船」の代替船として新規に建造し、利用者の安全とサービスの向上を図ります。

「船名:こぶかり丸」・・・・・別名を三津の人びとは「洲崎(すさき)の渡し」と言い、港山の人びとは「古深里(こぶかり)の渡し」と言っております。

現在、運航している渡船が「すさき丸」であることから、新造船は昔から地元の人びとに愛着がある古深里(現在の港山町)から命名されたものです。

三津浜は松山市の中心部から近いながらも、丘を一つ隔てているため、中心市街地とは異なる別個の市街地を形成しています。

城下町・支店経済都市として商工業を中心に発展した松山市の都心とは違い、漁業で育った三津浜は、どこかのんびりとした雰囲気に未だつつまれており、都心のすぐ側であるにもかかわらず、瀬戸内の典型的な港町の情景が広がっています。

ここは、太古から漁業の街として栄えて来ました。

「三津」の文字が初めて文献に登場するのは14世紀前後の頃ですが、飛鳥時代中期に在位した斉明天皇がお詠みになったとされる和歌に顕れる「熟田津(にきたつ)」と呼ばれる港が、この地であると言われており、そのため、少なくとも7世紀には「熟田津」=「三津」の地に集落が形成されていたと考えられています。

松山城が築城され、所謂「松山城下」、今の松山市都心部が開かれるのは17世紀に入ってからのことですので、三津の街の歴史は松山よりも約十世紀以上も長いといえるのです。

そんな三津の歴史をつぶさに見てきた航路があります。

それこそが「三津の渡し」です。

三津浜漁港の港内を結ぶ距離にして高々80メートル程度の渡し船なのですが、少なくとも1469年には開設されていることが確認されているという非常に歴史深い航路で、国内に於いて現役である渡し船の中では最も古いものであると考えられています。

そもそも、この航路は、遙か昔-詳細がわからない程の昔、伊予国の有力豪族であった河野氏が所有する河野水軍の拠点である「港山城」が三津港の北岸に築かれた際に、その資材運搬・城兵輸送を目的として開設されたと言われています。

その後、港山城は廃城となりますが、既に城兵だけではなく一般住民の生活航路となっていた渡し船は、中世・近現代と三津の施政者が変わるなか、脈々と受け継がれ、現在は市道2号線の一部区間として松山市によって運行されています。

運賃は無料で、ダイヤはもちろん決まっていません。

対岸に船が待機している際には、乗船場にあるブザーを押して水夫さんに乗船する旨を伝えると迎えに来てくれます。

他の渡船航路と比べても非常に小さい船ですので、水面を滑るようにして進みます。

開設以来長らく水竿を利用して進んでいましたが、大正時代に手こぎ船へと変わり、その後は原動機付の船となりました。

渡船に乗ると、周りには昔からあるであろう小規模な造船所や、丘の上にある神社や係留されている漁船群をみれます。

遠くには高層マンションや本州へ向かう長距離フェリーのターミナルなどを望むことが出来ます。

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